バブルと呼ばれた時代、若者は新たな場所を求め、都心から開発に沸くウォーターフロントに集まった。同時代の男女の恋愛を通じて東京を描き続けた漫画家・柴門ふみは、その変遷をどのように見つめていたのか。変わりゆく湾岸エリアの現在について、表現者の視点から語ってもらった。(※この記事は、2014年9月発売の雑誌『TOmagazine』の品川区特集号からの転載になります)
──天王洲アイルは1986年頃から開発が始まって、バブルとともに発展してきたという背景があります。柴門さんがマンガ『東京ラブストーリー』を発表されたのが1988年で、ドラマ化が1991年。ちょうど同時期に東京のカルチャーを描いた作品になりますね。
あの時代って、「ウォーターフロント」っていう言葉がひとり歩きしていた頃で、“海辺には何かがある”みたいな漠然としたイメージがありましたね。それまでは東京っていうと六本木、銀座、新宿あたりの、ネオンや高層ビルが連想されると思うんですけど、それが次第に湾岸エリアに移っていったのが印象的でした。
──当時、柴門さんは天王洲にどんな印象を持たれていました?
芸能人のパーティがよく開かれてましたね。あと、「倉庫を改装した何か」っていうのがすごくオシャレとされていて。ブティックだったり、レストランだったり、ギャラリーだったり。最先端のイベントは倉庫で!っていう感じでしたよ。
──倉庫がロフトと呼ばれ、注目された頃ですね。
アンディ・ウォーホールのスタジオみたいなイメージだったんでしょうね。バブルの少し前に、夫(漫画家・弘兼憲史氏)とニューヨークに行ったんですけど、たしかに倉庫街があったのを憶えてます。あれが原型になったんだと思いますよ。
──その頃ウォーターフロントに集まっていたのは、どんなタイプの女性だったんでしょうか。
新しくできたエリアにいち早く行くのが自慢、みたいな人たちでしたね。しかも彼氏の車で(笑)。あと、当時の編集者やスタイリストの女性たちが、率先してそういうスポットを押さえてたんです。私の担当編集もすごくイケイケで、週末に香港に行って、ブルガリの指輪を山のように買ってくるような女で(笑)。退職する時に荷物を整理するじゃないですか。引き出しをゴミ箱のところに持っていって、小銭ごとザザザーッて捨てたらしいんですよ。「小銭はお金じゃないから」って(笑)。
──身近にバブルな存在がいたわけですね。
彼女をモデルにして『東京ラブストーリー』の主人公・赤名リカのキャラクターを作りました。そういう主張の強い女性が現れて、会社を引っ掻き回すようになった。おじさんたちはそういう子を見たことがなかったから、呆気にとられて言いなりになっちゃったんですよね。
──職場でも街でも、女性が徐々に進出を始めて。
アフター5に遊ぶっていうこと自体、それ以前はなかったですからね。私の青春時代はバブルの少し前で、女の子は会社に入ったら25歳までに結婚するものだったんです。20代で5時以降に遊んでる女の子なんて、ほとんどいなかった。それが、1985年に男女雇用機会均等法が施行されて大きく変わったんですよ。女性たちが大量に就職できるようになって、そこへお金が踊る時代が来たんです。