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〈東京、視線の片隅で〉第2回「不忍池弁天島の供養碑」

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COLUMN
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鑑賞池

August 2019

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2017年7月5日
〈東京、視線の片隅で〉第2回「不忍池弁天島の供養碑」
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文・写真_鑑賞池

湯島から不忍池は目と鼻の先である。水上音楽堂の脇を通り、不忍池沿いをぐるりと弁天島に向かう。島で辺りを見回してみたが、探し方が悪いのか豚の供養碑は見当たらない。その代わりに所狭しと建立されている、たくさんの供養碑を見つけた。

鳥塚。

供養碑とは一般的に死んだ動物を、墓や祠、塚、碑を建てて祀ったものであるが、面白いことに供養の対象は非生物にまで及んでいる。物体を祀る習慣は、身近な道具にも使い続ければ霊魂が宿るという、日本独自のアニミズムから生まれたものではないだろうか。私がその存在を気にしはじめたのは、昔家族旅行で行った群馬県の榛名神社にある「ハケ・ブラシ塚」であった。なぜここにこんなものがあるのだろう? という違和感とともに、その間抜けさに感心したのを覚えている。

さて、弁天島にある供養碑を見てみると、身近な家畜の供養碑としては「鳥塚」がある。毎年4月10日に鳥供養が執り行われているそうだ。塚が建立されたのは1962年。「喜劇とんかつ一代」の公開は1963年。あの時代の映画制作の速さを考えると、川島も第一回の鳥供養の様子を見て豚供養のシーンを作り上げたという推測もできなくはない。

『包丁人味平』にも出てきた包丁塚。

めがね之碑。

島にはその他にも「スッポン感謝の塔」など非常に間抜けなものや、「包丁塚」「扇塚」「めがね之碑」など非生物のものもあったが、とりわけ可愛らしく私の目を惹いたのは「ふぐ供養碑」である。ふぐが誇らしげに波に乗る様を象った碑は、弁天島を訪れたことがある者ならば、気がつかずとも視界の片隅には必ず入ってくるものだろう。

ふぐ供養碑。

碑の能書きを読んでみる。まず昭和5年にふぐ料理連盟が結成され、昔から秘密にされていたふぐの調理法を公開したらしい。そして、戦時下の食糧不足に東京で開始された雑炊食堂にも参加し、今まで捨てていたふぐを中央市場に出荷させて、ふぐの雑炊を提供したとのことである。昭和24年には東京都衛生局からのふぐ調理師試験実施への協力要請に連盟として応え、東京都のふぐ中毒者は皆無となったそうだ。こうして食べられてきた沢山のふぐの霊に感謝をささげ、今後も安心して食べられることを祈念し、会員有志の協力で昭和40年9月にこのふぐ供養碑は建立された、というようなことが書いてあった。なるほど、東京でのふぐ普及にはこのような歴史があったのか、と唸ってしまう。「昔から秘密にされていたふぐの調理法」などと聞くと、脳裏に「裏柳生」という言葉もよぎる。

なお、東京以外のふぐ食の状況として、東海大学出版会から刊行されている『魚のとむらい 供養碑から読み解く人と魚のものがたり』(田口理恵編著)には、明治15年発布の「違警罪即決令」で、「河豚ヲ食フ者ハ拘留科料二処ス」として河豚食は禁止された。ところが、明治21年に伊藤博文が春帆楼に遊んだ際、女将が違法行為を承知の上でフグ料理を出し、これを食べた博文がその美味しさに驚いて、当時の山口県令にフグ食の禁止条項を削除させた。」(以上原文ママ)とある。このような経緯があり、まず下関に昭和9年(10年という記述もある)「波乗りふぐ」の像が建てられたようだ。そして、各地にあるふぐの供養碑は、たいていこの「波乗り」の構図に倣っているようであり、弁天島にあるこの碑も例外ではない(京都のふぐ塚を除く)。

池から精養軒を臨む。ここも映画に出てくる「青龍軒」のモデルである。

しかし、なぜ弁天島にこのような供養碑が集合しているのだろうか。

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