1926年12月25日、大正天皇が静養中の葉山御用邸で崩御した。1912年に第123代天皇として在位し、14年というわずかな期間ながら、民主化に湧く日本を見つめ続け、崩御後には「大正天皇」と追号された。2月7日に新宿御苑で大喪の礼が行われたのち、多摩陵(現・武蔵陵墓地)に埋葬。初めて東京に陵墓を作った天皇である。
崩御が午前1時であったため、新聞各誌はこぞって朝刊および号外でこの一報を知らせた。そのうち『東京日日新聞』(東京初の日刊誌。現・毎日新聞)の誌面に掲載されていたのが、「元号は光文」という文字であった。

日本における元号の始まりは、「大化の改新」(645年)で知られる”大化”とされている。
その後、午前11時頃に東京市麹町区にある宮内省が新しい元号を「昭和」と発表した。これにより、『東京日日新聞』は誤報を流したとして世間の避難を浴び、編集主幹が辞任に追い込まれる騒ぎに発展した。
では『東京日日新聞』の記者は「光文」の情報をどこから得たのだろうか。当時、次の元号は宮内庁と内閣府によって考えられていた。「光文」は内閣府側が出した案に入っていたとされるが、元号の選出に関しては宮内省主導で進められており、すでに「昭和」「神化」「元化」の3案に絞って推敲を行っていた。さらに、枢密院議長・倉富勇三郎の日記によると、12月8日の段階で次の元号は「昭和」に決定していたとされている。25日の段階でその他の案がまだ検討されていることは考えにくい。
そのため、何者かが内閣府による古い元号案を覗き見て、正しい情報と勘違いしたのではというのが通説となっている。
なお、1989年1月7日の昭和天皇崩御に際し、『東京日日新聞』の後身である『毎日新聞』は、夕刊で「新元号は平成」の大きな見出しを掲載した。元号の掲載はどの誌面よりも早く、もちろん正確であった。63年を経て『東京日日新聞』の雪辱を晴らしたのである。